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インレー湖で田舎暮らし

ミャンマーブログ。国際結婚してインレー湖の田舎町に移住。現地での生活や育児などの日常。

世界一寄付しているのはミャンマー人。他人が幸せになるということは、自分が幸せになるということ。

ミャンマー世界で一番、寄付をしている国だそうです。

140か国を対象にCharities Aid Foundationが調査を行った世界寄付指数(WorldGivingIndex)2016で、ミャンマーは3年連続の世界一に輝いた。
調査項目は寄付、他人への手助け、ボランティア活動などで、2位にアメリカ、3位にオーストラリアと続いた。http://yangon.press/9516

私はこの国に住んでいて、寄付の機会がたくさんあることに驚き、寄付するミャンマー人に感心していました。
寄付するミャンマー人について書きたいと思います。

 

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ミャンマーには仏教が根付いている

ミャンマー人のおよそ90%が仏教徒です。
この国に住んでいると、その宗教の習慣を感じることが多々あります。 

仏教には「諸善万行」といって為すべき善の行為があります。
布施・・・親切 
○持戒・・・言行一致 
○忍辱・・・忍耐 
○精進・・・努力 
○禅定・・・反省 
○智慧・・・修養

これらの善を積めば積むほど、来世が良くなると考えられています。
ミャンマー人のほとんどが、仏教を重んじておりこの善の行為の実践に努めています。
この「布施」つまり他人に親切にすること寄付することミャンマーでは当たり前。
それがミャンマーが寄付指数で世界一になった所以かと思われます。

 

ミャンマーを歩けばそれが分かる。「托鉢」とは?

ミャンマーで早朝に町を歩いていると、仏教の国らしい寄付の形を見ることができます。

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それは「托鉢」
僧が鉢を持って町中を歩き,米や金銭の施し受けてまわることです。
ここでは珍しいことではないので、早朝にはよく見かける光景。

托鉢には2つの意味合いがあります。
ひとつは、僧が自らの所有欲の否定のために行うこと。
ふたつめは、信者は僧にお金や食べ物を分け与えることによって善行を積ませること。

仏教を重んじるミャンマー人にとって「食べ物やお金を持っていない人に、お布施をすること」で、功徳を得ることができます。
僧にお金や食べ物を渡した側が「良いことをさせていただきました」と感謝するのです。
寄付した方が感謝するなんて発想、日本にいる時には考えられませんでした。

 「他人が幸せになるということは、自分が幸せになるということ」

何の見返りも求めずに他人を助けると、なんとなく気持ちが良いものです。
それは「優越感」ではなく、「他人が幸せになったのを見て、自分も幸せになっている」のだと思います。
「良いことをさせてくれてありがとう」ということが、今ではなんとなくわかる気がします。

功徳(くどく)を積むとは?

仏教の信者は、より良い来世のために現世で良い行いを重ね、功徳を積むことが最も大事なことであるとされています。

功徳を積むための方法は、僧侶への托鉢やお寺や僧院への寄付などが一般的。
最大の功徳は、①仏塔(パヤ-)の建立で、以下、②得度式の主催。③僧院の建立。④僧院へ井戸や釣鐘を寄進。⑤僧侶を招いて行う共同の食事の主催。⑥僧侶への布施。⑦一般の人に対して行う親切。http://centralpark-travels.com/?page_id=1870

仏塔や僧院へ寄付や、他人へ親切などの善い行いをすれば、自分にも善い結果が生じる。
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私が仕事で訪れているいわゆる貧しい村の人々もどんなに貧しくともお布施だけは欠かしません。
自分の食べ物が減ろうが、収入が少なかろうが、僧に寄付をしています。

日本人の私からしたら非合理的とも思えるミャンマー人の信仰心を、私はいつか理解することができるのだろうか…。
自分が収入が少なくて苦しい状況だったら、やっぱり寄付するなんてできないだろうな、と今はまだ思っています。

「他人が幸せになるということは、自分が幸せになる」という考えがここにもあるんですよね。
私の旦那も、托鉢の僧に週に何度もお金を寄付し、月に1回は僧院などに寄付しにいきます。
他人が困っていれば、仕事も放って助けにいくことも。
(それで仕事がまわらなくなるのもちょっと困るけど。)

ミャンマーに物乞いがいない理由

私が学生の頃、バックパッカーでアジアの国をいくつも訪れました。
インド、バングラデシュ、カンボジア、タイ、ラオス、フィリピン…
その全ての国に「物乞い」がいました。
足のないおじいさん、赤ちゃんを連れた若いお母さん、汚い服を着た子ども達。

しかし、初めてミャンマーに来た時。
今まで当たり前にいた「物乞い」の姿がなくて驚きました。

聞くと、ミャンマーで貧しくてごはんも食べられない人はみんな僧になるそうです。
僧にならなくともお寺に住んで、お金や食べ物の寄付を受けることができるのです。

だから、「物乞い」は町中にはいない。
仏教を重んじるミャンマー人たちがお寺にお布施、寄付しに来る。
お布施をする彼らは功徳を積んでいく。

そういった仏教の教えが、この国を作っています。
親切をすること、他人に施しを与えること、それがこの国では当たり前。 

「ありがとう」と言わない

日本ではいつも「ありがとう」をちゃんと言おうと心掛けていました。
なのでミャンマーでも「チェーズティンバーデー(ありがとう)」とよく言っていました。

しかし、ある日「そんなにたくさん "ありがとう"って言わないで」と旦那に言われました。
善かれと思って言っていたのに、まさか「ありがとう」を否定。
日本では「ありがとう」って言うのが礼儀ですよね。

意味が分からず悶々としていたところ、日本に長く住んでいたミャンマー人がその理由を教えてくれました。
ミャンマー人は「ありがとう」とあまり言わない。
自分が他人に何かしてあげた時も、「ありがとう」は必要ないから。

他人に何かしてあげることは当たり前。
困っている人を助けるのは当たり前だから、そこにいちいち「ありがとう」のお礼の必要はない。ということだそうです。
見返りを期待せず、ただ他人に親切にするのが普通であるこの国の人たち。

バスでお年寄りが席を探していたら、譲るのが当たり前。
お年寄りのおじいちゃんおばあちゃんは「ありがとう」を言わない。
譲った若者も当たり前のことをしただけで、他に何も考えることはない。

日本だったら、席を譲るべきかどうか迷う場面もあります。
お年寄りに席を譲った時に「ありがとう」の一言もなく、当たり前のように席に座ったら、「せっかく譲ってあげたのに」とイラッとするかもしれません。
きっとそれは、「良いことをしてあげる」というおごりなのかもしれないと考えさせられました。

ミャンマー人は、お年寄りを見つけた瞬間に、当たり前に席を譲る。
むしろ譲った側が、「良いことをさせてくれてありがとう」ということなのです。

困っている人を助けることは当たり前。
そんな当たり前のことが今までできていただろうか?と自分に問いかけてみました。

本当は、困っている人を助けることが当たり前でない世界がおかしいんですよね。

ミャンマーにいても、まだ「ありがとう」を言いたくなってしまうけど、当たり前に他人に親切にするのはやっていこう。
来世が良くなるかは知らないけど、見返りを求めず他人に親切にする行為はこの国の平和を作っている。
世界中の人が、困っている人を当たり前に助けることができたら世界はもっと良い世界になる気がします。

 

ちなみに私の旦那も僧になるか結婚するか迷うほど、敬虔な仏教徒です。
ミャンマー人のそういうところがあるから、一緒にいて尊敬できるいいお手本になってくれています。
今は、私との結婚を選んでくれたけどいつ「やっぱり僧になる!」と言い出すかちょっと心配です。

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